一如の世界

延徳年間(1489〜1491)年創建 開基 善西
旧本願寺直参 柳川御坊 触頭

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真宗大谷派とは


真宗門徒のご本尊は「阿弥陀如来」一仏だけをご本尊とします。
正依の経典は「仏説大無量寿経」(大経) 「仏説観無量寿経」(観経) 「仏説阿弥陀経」(小経)で、これを浄土三部経といいます。
真宗の祖は、親鸞聖人です。親鸞聖人の主著は「顕浄土真実教行証文類」(教行信証)です。
宗派の正しい呼び方は「真宗大谷派」です。
ご本山の呼び方は、一般的には東本願寺と呼ばれますが、正しくは「真宗本廟」といいます。又は、「本願寺」ともいいます。

 

初代筑後32万石国主 田中吉政公菩提寺

田中吉政公は関ヶ原の戦いでは東軍に属した。
関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では黒田長政・藤堂高虎と共に大垣城から岐阜城へ向かう西軍を河渡で殲滅しました。
この際、石田三成の配下の杉江勘兵衛は、吉政の家臣である辻重勝により討ち取られている。
本戦においては黒田長政軍とともに石田三成軍と激突している。
東軍勝利後、三成の居城佐和山城を宮部長房(長煕)と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。
石田三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、吉政は熟慮の上、
健康に良いという理由付けをしてニラ粥を勧めたので三成はそれを食したと言われている。
吉政に会った三成は太閤から給わった脇差しを吉政に授けた(寸延短刀 石田貞宗:東京国立博物館蔵)。
手厚くもてなされた礼であると言われている(三成も捕縛される時、「他の者よりはお前に捕らえられた方がいい」という旨の発言したという)。
戦後、これらの勲功が認められて、筑後一国柳川城32万石を与えられ、久留米藩と柳川藩を含む初代筑後国主として柳川城に入城。
柳川城をはじめ、掘割や道路、干拓の整備を早々に進めた。

現在、観光客に楽しまれる川下りのコースは、ほぼその時代に造られたものといわれ
古くから土木・治水の神様として広く尊敬されている。

慶長14(1609)年2月18日 江戸参勤のとき、田中吉政は京都伏見の旅亭において卒去しました。
吉政公は、藤吉村(現在の柳川市新町)に埋葬するよう遺言を残していた。
その埋葬の目印の石を中心に建立されたのが眞勝寺で山号は「田中山(でんちゅうざん)」。
本堂自体が吉政公の墓であり、その目印の石の真上に御本尊が安置される建築方法になっている。

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四角錐のその石は、キリスト教徒の高位者にしか使用しないといわれるピンクの石であり、
上面には十字がきられたような紋様がある。
この建築様式は全国的にみても、今だほかには発見されていない。
位牌には、キリシタン大名によく使用されていたという『桐』の文字が使われている。
吉政公がキリスト教徒であったという資料はないが、現在でもキリスト教徒の方が墓参に来られる。

眞勝寺由緒

創建 延徳年間(1489~1491)年
開基 善西

当寺の開基、筑後草野城主草野太郎永経の孫永利が応仁元年( 1467)年に本願寺第八世蓮如に帰依し、法名善西となる。

善西は真宗を広めつつ、延徳年間、ふるさと筑後三井郡仁王丸村に筑後国最初の念仏道場を創建す。のちに寺号を眞教寺と称す。

その後、善西、善正、祐善、証善、宗善の時代を経て六世休善(当寺中興の祖)の時、
文禄元年(1592)年 初代柳川藩主立花宗茂公浄土真宗繁栄の宗旨也として家臣 小野和泉守鎮幸、立花三河入堂玄賀に仰せつけられ、
これによって城内大屋小路に移し道場を建立す。

立花宗茂公は天正14(1586)年 豊臣秀吉の九州平定により、翌天正15(1587)年に下筑後を拝領し初代藩主となる。
それより以前の筑後での戦の中、休善と懇意にす。
眞教寺、仁王丸から柳川へたて置かれることに対して、本願寺第11世顕如上人満足との本願寺家老下間頼廉書状が現存。

文禄元年(1592)年3月6日付けで願主立花宗茂公に顕如上人より本尊下付される。(現存無し)
これにより領内僧録所惣道場として中心的な役割を果たす。

遡り元亀元年(1570)年 織田信長と本願寺との間で石山合戦が始まり、眞教寺も参戦す。

天正11(1583)年には下間頼廉より筑後国、筑前国、肥前国の坊主衆中へ顕如上人貝塚へ動座の廻し文が届く。(現存)
九州の真宗教団の流れは六つに分類され、当寺眞教寺は豊後臼杵の善法寺系に属す。

創建以来、肥後の西光寺、肥後の順正寺と共に善法寺の末寺首領として本願寺直参御番衆としての役割を果たす。
文禄2(1593)年 下間頼廉より、四ヵ寺への廻し文現存。

宗茂公は文禄2(1593)年正月7日付で「当寺置目の事」三箇条を定め眞教寺に与える。

その後、小野、立花、両名の家老が「眞教寺置目之事」を出し、
立花家が眞教寺の下に僧俗の真宗勢力を統制しようとし、脇寺もこの段階で設けられる。
豊臣時代の立花家にとって眞教寺は非常に重要な役割を持っていた。
慶長5(1600)年 関ヶ原の戦いがおこり東軍での石田三成を捕らえた功績により、
田中吉政公32万石の初代筑後国主として慶長6(1601)年 柳川へ入城。
本来前藩主立花宗茂公の取り立て寺院であることから寺院存続も厳しい状況の中、
慶長6(1601)年 吉政公より筑後国の坊主分本山見舞いのための路次の安全を保証する旨の書状をいただく。(現存)

吉政公は近江湖北出身で自身真宗に深く帰依しており、眞教寺と本願寺との特別な関係についても保護を与えようとしたようである。

慶長7(1602)年 本願寺東西分派のおり即座に東へ帰参す。

慶長13(1608)年には、教如上人より祖師真影、聖徳太子、七高僧下付される。(現存)

慶長14(1609)年2月18日吉政公江戸に向かう途中、山城国伏見において死す。

遺骸は京都黒谷金戒光明寺に葬られるが慶長16(1611)年 菩提所たるをもって田中筑後守忠政、
父吉政の遺命に任せ柳川城外藤吉村に一千石を寄付し土葬の御葬送し御尊骸の上に仏閣を建立す。

尚、眞教寺から眞勝寺へと寺号の変更は(1601)年の吉政公眞教寺への文書、
慶長13(1608)年 教如上人より下付された絵像裏書の眞勝寺から考えて七年間のうちに改号があったと考えられる。

筑後二代国主忠政公により、真宗東派の惣道場を設け、当派の触頭に定められる。

慶長15(1610)年には観如(教如の二男)の得度、慶長16(1611)年 御開山三五〇回忌法要勤修、
元和2(1616)年 教如上人3回忌法要勤修についてなど、筑後坊主分にまわす旨の本願寺書状数多く拝領す。(現存)

江戸時代、享保期の柳川惣町図をみると、眞勝寺について「惣畝一町六反ニ畝二七歩、寺内五ケ寺并田畑共」と掲載され、
塔頭寺院五ヶ寺を含くみ、この寺地は柳川町の寺々の中では最大の規模を誇り、約三〇ヶ寺の末寺、末庵を抱えていた。

元和6(1620)年 二代国主忠政公没後、田中家改易され、立花宗茂公再び柳川藩主へ返り咲く。

眞勝寺はもともと宗茂公取り立て寺院であることから三代鑑虎公より歴代藩主の三ヶ条の御書付御判物拝領す。

文化14(1817)年 院家免許御坊御免ありにて別院格に立て置かれる。
同年九月、祖師真向の御影、並びに歴代上人列座像下付(現存)

文政6(1823)年には達如上人(二十世)、万延元年(1860)年には厳如上人(二十一世)より、
本山で勤まる仏事に遠路の為参詣できない門徒の為に特別に眞勝寺の本堂での講(法座)を勤めてよいとする本山二十八日講、本山八日講、それぞれ許可される。

その他、数多くの御消息等の書状現存。尚、廃藩置県後、本山の改正と共に現在に至る。

眞勝寺にゆかりのある人物
北原白秋

柳川出身で、『思ひ出』など数多くの作品を書いた北原白秋。
北原家は、当寺の門徒で、昭和16(1941)年、国民的詩人になった白秋は、数十年ぶりに帰郷。
その際、当寺を訪れ、「長い間、お参りせずに申し訳なかった」と言われて、短冊と茶碗(一文字)を供えていかれた。
その後も手紙が送られてきたが、翌年の十一月、五十七歳で死去。
当時のハガキ等は、今でも大切に保管されている。

海老名弾圧

福沢諭吉と並び、明治六大教育家の一人として称された新島襄。
アメリカ留学中キリスト教に入信し、宗教家でもあった襄は同志社大学の基礎をつくった。
その襄を師事し、第八代同志社総長を勤めた海老名弾圧は柳川に生まれ、お墓も当寺に建立されている。

乗富政子

「柔道の父」講道館の創始者である嘉納治五郎に師事し、女性第一号の有段者になる。
東京オリンピックでも形を演舞した。
お墓は当寺に建立されており、今でも関係者が墓参にみえる。

宗吉兵ヱ

立花宗茂公等を祭神として祀る三柱神社(柳川市三橋町高畑)建築の棟梁、宗吉兵ヱ。
創建翌年の文政11(1828)年の暴風の際、楼門の二階に正座し、風がおさまるのをひたすら祈ったと言われている。
お墓は当寺に建立された。

草野義純

江戸時代の儒学者で教育者でもあった広瀬淡窓が、現在の大分県日田市に開いた私塾「咸宣園」。
大村益次郎等が輩出し、江戸時代最大の私塾と言われた咸宣園に入門。
明治25(1882)年に三等楽師になり、明治29(1886)年 擬講に進み、同年の夏安居で「天台四教儀締観録」を講じた。
明治31(1888)年二等学師となる。当寺二十世住職。

草野貞之

フランス文学者で中央大学教授を勤め、昭和4年(1929)年中央大学教授となり定年退職するまでフランス語を講じた。かたわら、昭和6(1931)年白水社に入り、昭和18(1943)年に白水社の社長になり、昭和46(1971)年から白水社の会長を務め、わが国のフランス語教育に多大の貢献をした。会長時代の昭和56(1981)年「仏和大辞典」を刊行。またアナトオル・フランスの「エピキュウルの園」などの翻訳で知られる。パルムダカデミー褒章(仏政府)、シュバリエデュドラゴンダナン勲章、オフィシェデパルムザカデミクなどを受賞。
当寺二十二世住職の長子。